さよなら平成

Posted by jolantern on Sunday, April 7, 2019

僕は平成生まれ平成育ちなので、そっか、終わるんだなぁという気持ちになった。もうすぐ誕生日なこともあって、平成、ひいては僕の人生でもあった年月を振り返りたいと思った。書いてみると、そんな盛大に振り返るほど平成に思い入れがないらしく、平成に対する感想って感じになった。ちなみに、この文章から得られる学びは0とはっきりいえる。事前に断っておくと、僕にかかったバイアスがふんだんにアウトプットされている。

平成を生きてきて

僕は確かに平成を生きたが、平成が形成した文化を生きるのはむしろこれからの人々だろう。だけど、確かに僕は100%平成製なので平成を生きたと言っても差し支えないだろう。

平成生まれだということで思うことといえば1991年、平成3年生まれというのはなかなかひどい世代だったように思う。別に暴動があったとかそういうわけではない。しかしちっちゃな頃から不景気で15でゆとりと呼ばれ就活してたら大地震だったりして、まあ皮肉っぽく言えば当たり年である。僕は高専卒だから、いわゆるステレオタイプとは少し異なるかもしれないけども。

普通は普通という顔をして

きっと、古代ギリシャの石版に最近の若いものは…ということが書かれていたのと同じ程度に感じられてきた感情だろう。「普通が少し変わったのかな」という感情が少しある。だが、きっとこれは幾度となく変わり、幾度となくそう感じられてきたものだろう。普通というのは大抵、混沌の真ん中の方にある掃き溜めのように滞った部分を抜き取って表現された自己正当化の道具にされがちだ。そして人は無意識に、自分のいる滞りを丁寧に切り取りがちだ。

それはそれとして、普通というのはきっと常に変化している。でも、少しいい方向に変わったかもしれないと僕には思える。これは同時に、僕にとって都合良くなったという言い方もできる。この僕にとってというのがあなたや他の誰かにとって、というようにより広げられたならいいことだろう。多数派にとっては。どんなところがそう感じられたのかを書いてみる。

マスコミが、(今でも酷くそうだと思うけど)三権分立の間で都合よく動いているだけの状態が、インターネットの普及で必ずしもそうではなくなったこと。かつてのマスコミにとっての普通が覆っていくのは僕にとってはいいことだ。真実を知ることはできなくても既知のある情報の真偽を疑えるようになるのは、無知の知を知るがごとき進歩だと思う。僕には、きっとインターネットがないとできなかったろう。

終身雇用じゃないのが普通になったこと。これもきっと、僕にとってはいいことだったと思う。1度しかない人生で、なぜ1度きりの選択を好き好んで増やすのか、僕には理解できない。これに対して「安心が~」とかって返す人もきっといると思うけど、それが自らの人生を限定するに値する価値があると思うこと自体、僕にとっては異常なのだ。それのどこに安心があるのか、まったく理解できない。印鑑を押してもらうという行為が、電子印よりも安心ってレベルの話だと思うけど。

次に、被差別だったりハラスメントだったり、不条理を被っている人が声を上げるのが(ほんの少しは)普通になったのはいいことだと思う。少なくとも、声を上げることが異常な世界ではなくなりつつあるんじゃないだろうか。僕は常に多数派に属している人物ではない。少数派にいることも多々あると言っていいだろう。少数派は、ただそれだけで社会の弱者だ。弱者がただ一方的に殴られる社会は、僕にとっては少なくとも都合が悪い。

とはいえ手放しに喜べない、という気持ちもある。セクハラパワハラは未だに(これさえも)普通に存在する。見えづらくなっただけだろう。差別も普通にあるだろう。部落差別なんかはなかなか聞かなくなったが、僕が就職活動をしていたあたりに出身地差別で炎上したのが記憶の隅にある。男女差別も未だに根深い問題だけど、男のくせに、女のくせに、みたいなのはだいぶ言いづらい社会になってきたんじゃないだろうか。それでも言う人は言うわけで、差があることを認めることと差を無視することの違いが難しかったり。

そういうあまりにも低俗な差別もあれば、それなりに社会してるから生まれる差別もある。最近少し話題になった、結婚したり子供できたら転勤させてもやめないみたいなのはそれの一つだろう。まあ、先述した通りの理由でもう通じなくなってきていていいことだ。逆に、独身だから~とか子供いないから~って差別はよく見るようになってきた。数年前の話だが、独身だし転勤してもいいでしょ?みたいなのが聞こえてきた時はそうきたか、と思った。何がいいんだかわからなかった。明日は我が身と思っていたら瞬時に僕のところにお鉢が回ってきて、うまく立ち回ったらどっかに消えたという昔話。

残念な普通もある。子供がいない家庭や、独身者が増えたのはきっと残念な普通なんだろう。いうほど普通になってないかもしれない。怖くて観測する気にならないが、僕はそこをあまり残念とは思っていない。とはいえ、社会を形成して生き残るタイプの動物としてはこの少子化の進み方はやばいんだろう。こういう社会社会した部分を眺めていると、ネガティブな普通が目に付きがちだ。さっきの差別の話につながるけど、子供がいる人を優遇しようという流れが行き過ぎていない人を冷遇するみたいなのも耳にする機会がある。流石に先のハラスメントほどしょっちゅうは聞かないのが幸いだけど、これはきっとどんどん増える。子供を持った人と子供を持たない人の間に、その状況を望むにしろ望まないにしろ差がうまれていくのだろう。これ以上は話が長くなるな。

話を戻そう。 1Gbpsな回線が普通になったのは最高ですね。もっと早くていいです。ええはい。おかげで僕が思いつきでゲームを買い、お茶を淹れる間にダウンロードが終わり、起動したら工場を作るゲームが遊べるというのはいいことだ。Satisfactoryはいいゲームなので、皆さん買いましょう。ゴートシミュレーターの開発チームの新作です。Hollow Knightも最高のゲームだった。あんなにきれいで儚い世界に引き込まれたのは久しぶりだった。The Messengerは素直な2Dアクションか忍者が好きな人、ものを作り表現することに葛藤したことがある人は遊ぶといいです。最高なので。ゲームで感極まるのも久しぶりだった。平成はいいゲームが沢山生まれたと思います。令和もそうであってほしいですね。

きっと社会がそれなりに枯れた組織として仕上がっていく中で、みんなの普通がみんなのそれなりに望むどこか落ち着きのいいところに収まるのがいいんだろうなと思います。きっとそれによって幸せな人生を送る人もいれば発狂モノの地獄を送る人もいるんだと思うけど、そんな中で幸せを突き詰めるのが人間なりの生存競争なのかもしれない。そしてそれが自分の選択の結果でしかないのであれば、選択に真面目に向き合っていきたいですね。

ゆとり世代

これは僕が世間を実はいうほど賢い集団じゃないと知るのに一役買った言葉だと思う。個々人が賢くても大衆は賢くないという考え方があるらしいが、それに近いと思う。自分たちでゆとりがゆとりと呼ばれる所以を作っておいて何がだめだ~とかこれだから~言ってるんだろう?だめだとしたら君たちの采配だよな…と子供に見透かされるような人というのが一定数いて、しかもそれがまかり通っていることがわかったのだった。しかし、僕は高専に入った時点で僕の思っていた賢さ(今思う賢さとはずいぶん違うが)において自分がどうもかなり馬鹿な部類に入るらしいという自覚を得たことは幸いだった。はるかに賢い人と知り合えたのでそこで変に歪んだりへそを曲げずに済んだと思う。でも、このひどい呼称に気持ちをおられた人はそれなりにいると考えていて、あまりいい歴史ではないと思える。新元号に生まれてくる人々に対してそういう世代で括ったような愚かしい呼称を作らないでいたい。もちろん今ランドセル背負ってたりつい最近生まれたような今生ルーキーにたいしても。

その一方で、平成生まれはこれだからだめだ、みたいに将来言われない年寄りになりたいと思うのは僕の中には世代で括りたがる呪いがあるんだろうな。

これから

自分の人生の振り返りをかたっておきながら、ただのコメントの羅列になっているのは僕の人生の薄さを表しているようだ。せっかくだからこれからどうしていこうかということも考えようとしたけど、やめた。将来どうなりたいなんて昼飯に何を食うか決めかねて適当にいつものメニューで済ませる人間がそう安安と決められるものではないし、かけるものではない。ただ漠然と、個の幸せを追求して、その幸せへの最短距離を描いていけたらいいのにと思うばかりである。