結論を言ってしまうと主張が伝わらない事がある

Posted by jolantern on Sunday, July 28, 2019

主張、というものを考えてみた。何かの議題にたいして主張するときは下記が前提にあるの考えてよかろう

  • その主張を受け入れてもらうことを期待している
  • したがって、その主張に論理的な妥当性がある
  • そして、その主張が独りよがりな考えによるものではない

では、どう主張するのがよいのか。多くは「これはこれこれこういう理由で、こうすべきではないだろうか?」といった言い回しになるだろう。他にもあるかもしれないが、ここで想定するのはそういう主張の仕方だ。

これは前半部分と後半部分両方とも必要である。もし前半部分しかなかったら、ただの察してちゃんになる。察しさせる圧力を人にかける(悪質な)コミュニケーションについてはここでは語らないことにしよう。俗に忖度と言われる事が増えた。忖度が泣いていそうだ。後半部分しかなければ、論理的裏付けのないべき論になってしまう恐れがある。主張として不完全になってしまうので、そういったものたちについては触れない。

その上で、先述した主張の仕方がうまく通らない事がある。例えば、前提知識や視座が異なる場合である。 もし前提知識がないと前半の論理立ての部分で誤った捉え方をしてしまう。あるいは主張する側が誤った論理に基づいた主張をしてしまう。 視座が異なると、俯瞰できている一方には見えている前提条件であったり、関係する人物の姿がもう一方には見えなくなる。

つまりは、これらをそろえてあげるアプローチができて初めて、意見の相違を解消する議論ができるようになる(ただの合意を得るだけの結果になったとしても、何らかの議論のために主張が行われるはずだ)。相手が自分の主張を理解していないと考えているのであれば、尚更主張する側が歩み寄る他ない。前提知識なり、視座なりで相手には無いものがあり、それを伝えるために主張するためだ(偉い、ということではない)。相手に歩み寄る姿勢は必要なのだが、その距離が遠くなるほどコストがかかる。一方だけが歩み寄る姿勢を持ったコミュニケーションは、果たして議論になりうるだろうか。

主張を聞く側に立った人物も、自分の前提を脇において相手の前提を見てみるなどの歩み寄りが必要だろう。主張がなされた時点で、何らかの議論が行われることが期待されるはずだ(繰り返しになるが、ただの合意もこれに含める)。聞いている側の姿勢も相手の前提を見に行く姿勢でないとうまくいかない。これが疎かになると、一方が発言し続けている状態になる。この構図の最も厄介なところは、発言し続けている人物が主張を押し付けている加害者ように見えることだろう。実際には、発言に対して何も歩み寄らず自身の主張を絶対として動かぬこと山の如しなもう一方が存在しても、そちらは頑なに自分の前提に立って話を受け流すだけであるから一見被害者に見える。このような状態になると何が起こるかというと、主張を述べる人物が減少し、いなくなる。それが望ましい環境を少なくとも私は知らない。

加害者、被害者という構図になるのはそれらを観測する第3者によるものであろうが、第3者の捉え方をコントロールすることは難しい。第3者が、どちらか一方の肩を持つ姿勢を最初から取ることだってありうるが、それもやはりコントロールできない。であれば、そのような構図にならないようにコントロールすることが現実的だ。一つの選択肢として、主張をしない、が含まれるのは当然と言える。動かざること山の如しであるならば、山に語りかけても仕方がない。その時は諦めるか、外堀を埋める方がいくらかマシだ。

話がそれそうなので、どう主張するのがいいのか、というところに話を戻そう。歩み寄る、というのはそうだけどではどうすれば歩み寄ったことになるのか。自分の主張内容を妥協して幾分か相手の主張の内容を取り入れるのが歩み寄るということなのか、というと違うように思う。妥協案を作ることが議論ではないはずだ。自分の主張が100%受け入れられて、かつ相手も満足して良い議論だった、といえるシーンも確かにあると思う。ここで最も難しいのは、妥協案と折衷案の違いに気づかずに議論の舵を取ろうとしないこと、させないことだとも思った。

こんなエントリを書いているのは自分の中で、自分の主張であったり誰かしらの主張がうまくいってないケースを何度かみたり体験したりした結果だった。その中で一つの案のようなものができてきた。それは最初に結論を言ってしまうのをやめたほうがいいな、ということだ。結論を最初に言えみたいなフレーズはそこかしこで聞くが、それを全面的に否定するわけではない。経営者であったりマネージャであったりが部下に報告させる際にそうしてほしいというケースであったり、さっき例に上がった察してちゃんのような人物に対してそういう「結論を最初に言わせる」アプローチが有効なのだろうと思う。実際には結論を言っていない人物、もしくはいくつかの会話のキャッチボールの末に結論が出てくるぐらいなら、最初に言えというのはまあ分かる話だ。

ではなぜ、結論を言わないほうがいい、という話になるのか。それは先に上げた視座や前提の話が関わってくる。ある結論と、その結論を受けた人物の考えが大きく乖離しているときのケースを考えてみよう。結論が最初に出ている場合、特にチャットなどのテキストコミュニケーションにおいてはその結論を見た時点で、自身の考えとの相違や乖離の大きさを目にすることになる。結論そのものの良し悪しや特性より、自身の考えとの相対的な距離のほうが目につくケースがあるのではないか。……推測になっているのは、私はそうではない、と考えているからだが、実際にはきっと私自身もそうだろうと思う。また、毎回そうではないだけとも言えよう。

そして、親切な主張者であれば、続けてその根拠を述べるはずだ。最初に書いた「これはこれこれこういう理由で」の部分は最初に書いているにしても、その前提条件であったり、なんらかの補足がされることが多いように思う。2つ返事で主張が受け入れられるようなレスポンスがあっても、そういうことをする人はいる。お互いの理解を深める意味ではこれは有効だと思う。

だが、この根拠が述べられている間、聞いている側の人物の中には自身の考えとの乖離が渦巻いている。ネガティブな考えが当然浮かぶだろう。否定的、保守的な考えを持っていたなら尚の事そうだ。思慮深い人間ならば相手の根拠を聞いた上で、一度机の上の自分の考えを脇において相手の論理を組み立てた上で自分の考えと比較できる。だがこの乖離が大きくなればなるほど、その思慮深さ、冷静さは失われる。

そこで、最初に結論を言ってしまうよりかは、自分が考えている前提や、見えている課題について先に話したほうがいいのではないか、と思ったのだった。そうすると、冷静な相手であればその課題や前提に対して自分自身の考えを展開するなり、考慮できていないことを認めたりができることだろうと思う。

これはどちらが悪いかという話ではないのだが、やり口を改善することによる効果が大きいのは主張している側であろう。自分の発言によってもたらされる相手の内情はコントロールするのが難しいが、自分の発言の順序や内容をコントロールするのは比較的容易だからだ。

この理屈は、主張をする側、される側の視座が同程度に高く、前提知識が共有される場合はただ遠回しになるだけなので意味は薄い。同程度に低くても同じことであるが、前提知識に心配があるなら有効だろう。

最後に、ここで取り扱う主張というのは一方的に行われているものではないと考えている。大衆演説でも無ければ、主張された側も、その主張に対して反論・合意・修正なり、何らかの主張を返すことを想定できる。したがって、何かを主張された人物がこのエントリに書かれているロジックをその主張に対して適用する場合、自身が次に発する言葉にも平等に適用されていることが必ず必要になる。理由は、一番最初に書いた主張の前提に含まれる。